ひとりごと 4

                仕事と子育てと

1974年1月、私は日本航空に195期生の客室乗務員として入社しました。
 その年の4月、航空労働者は乗客の安全を守る闘い、労働条件の改善を求めストライキを敢行。所属した日本航空客乗組合は30歳定年、結婚退職の撤廃、休暇制度の改善、その他数々の労働条件の改善を勝ち取りました。
 旅客の快適性と安全を守る客室乗務の仕事は、華やかな一面のみが取り上げられることが多いのですが、「腰掛け」ではなく長く続けられる仕事として確立できる突破口となりました。自分の特性に合ったこの仕事が大好きで、ずっと続けたいと思っていた私にとってうれしい勝利でした。1976年10月、結婚しました。
  妊娠した一人の乗務員(当時は妊娠したら地上職に移るかやめるかの二者択一が迫られていました)の訴えを組合がバックアップし、「出産後も働ける職場」にする取り組みが行われました。訴えた人は出産後体調を崩し、やめていくことになりましたが、「ママさんスチュワーデス」はその後会社に認められ現在にいたっています。ひとりひとりの要求を大切にそれをみんなの要求にしていく「労働組合」が本当に大切だと思います。
 「ママさんスチュワーデス」の第一期の子どもたちは今22歳。私の長男もその中の一人です。
 
  長男を出産した当時の小川町は0歳児保育がなく私は1年間育児休職をとり、1歳になった長男を東松山市の仲良し保育園に預けました。ならし保育の期間預かってくださったご近所の方、保育園の先生、子どもの病気のときのSOS発信に何度も出動してくれた母、叔母、そして友人、知人、何よりも高校教師をやりながら「主夫」として子育てに参加してくれた夫に支えられ仕事を続けてきました。いろんな方の手を借りながら子育てをしてきました。1年後に次男が生まれ、毎月お互いの手帳を見ながら私の休みに合わせ夫は自分の予定を組んでいきます。保育園の送り迎えの調整、行事の調整。はしかに水疱瘡にと二人時間差攻撃でどうしょうと親のほうが泣きたくなる日々。今日から泊まりの仕事というのに熱を出した長男を抱え途方にくれ、私これ以上休めないとパニックったとき、「大丈夫オレが何とかする」と送り出してくれた夫。親も大変だったけれど子どもも寂しさや情緒的不安を抱え大変だったんですね。仕事をやめようかと何度も思いました。あの修羅場をくぐり抜けてきた夫とは本当に「同志」です。「あのころは綱渡りだったね。」と今でもお酒を飲みながら二人でしみじみと話します。子どもが学齢期に達すると放課後をどうするか。学童保育を作る運動にいつの間にか首を突っ込まざる得なくなり署名を集め議会に請願し運動しました。いつの間にか夫は「学童保育を作る会」の会長に祭り上げられていました。
 長期出張のない国内線で主に仕事を続けながら子育てしてきましたが、会社の合理化の一環で国内線は採用形態の異なった乗務員とすることになり国際線に異動(
1年半乗務)、家族や体調も考え22年と11ヶ月の乗務員生活にピリオドを打ちました。
  長男の22歳の誕生日にメール
を送ったら「あなた達の間に生
まれて本当によかったと思いま
すよ。」と返してくれました。
涙です。

朝、保育園の前を通るとスー
ツ姿のお父さんお母さんに出会
います。子育て真っ最中のお父
さん、お母さん、「今は大変だ
けど大丈夫。もう少しだからが
んばって。」と思わず声をかけ
たくなります。

  これからは仕事をしながら子
育てをしていてこんな制度があ
ったらいいなと思っていたこと
を、お父さんやお母さんたちと
一緒に実現に向けてがんばって
いきたいと思っています。


ラストフライト キャプテンとご一緒に

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