ひとりごと 9

一日も早い自衛隊の撤退を

大義なき戦争はこんなにも人間性を破壊させるものなのか。

米軍兵士がバグダッドのアブグレイブ刑務所で行ったイラク人捕虜虐待の写真や一連の報道を見聞きするにつけ人間の持つ「獣性」のおぞましさにおののいてしまいます。根底には白人主義といった民族の優位性の誇示、アラブ人べっ視が見え隠れし、まだあどけなさの残る女性兵士のその行為を写した写真に、第二次世界大戦に行ったナチスドイツがユダヤ人に行った虐待、虐殺の衝撃的な写真がオーバーラップされます。

しかし、おぞましい犯罪行為は、米軍内部の一部の蛮行ではなく、実際には組織的に行われていることが、その後の証言や報告で明らかになってきました。蛮行は、「イラク解放のための戦争」というブッシュ大統領のうそをもっとも明確に示すものとなっています。拷問と陵辱を受けた青年が、「この恨みは忘れない。米軍に絶対に復しゅうする」と語ったと報じた米紙もあるそうです。憎しみの連鎖が続きます。

「フセインの圧政からの開放」というイラク国民が、米国がイラクに留まることを許していた唯一のよりどころが帳消しとなりました。「虐待は侵略者の体質そのものを暴露した」とはアラブ世界の人々共通の非難の声ということです。イラク各地ではシーア派とかスンニ派などの垣根をこえて手をとりあいイラク国民そのものが反米闘争に立ち上がっています。占領統治ではなくブッシュ大統領はそういうイラク国民を敵にして「新たな戦争」を行っているのです。そして、この泥沼化したイラクの地に自衛隊は現在もとどまっています。日本は、アメリカと一心同体の国として、イラク国民とアラブの世界の人々の非難と憎しみの的となっていくことが必至だと思います。

3人の人質解放の条件としての自衛隊の撤退要求に、テロに屈することはできないと断固拒否した日本政府でした。「イラク戦争は間違っている。間違いを正す方法はただちにイラクから去ることだ」。とスペインのサパテロ政権が選挙に勝利した後、イラクからの撤兵したように、人質事件も解決した今こそ、アメリカ言いなり、アメリカの応援団をやめ一日も早い自衛隊のイラク撤退を願っています。

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ひとりごと  10

この4月から一人娘が高校生になった。二人の兄たちと年が離れ、親も「子育てはまあこんなもんだ」みたいな手抜き?もあり自由奔放に育った。

「俺たちの小さいころテレビなんかほとんど見せてもらえなかった」とか「おやつも市販のお菓子なんか食わせてもらえなかった」とスナック菓子を抱えテレビをソファーでひっくり返って見ている妹に兄たちがいう。親が手抜きした分、娘は兄たちに小姑よろしく「柳田家家訓」を教え込まれ、こき使われた中で学習し、いかに兄たちと対等平等に利益を主張する論理を構築するかそして最大の売りである「だって女の子だもん」をここぞというときに使うか、それなりの処世術を身につけてきたようだ。3人目をあきらめていたときにひょっこりとできたそれも女の子で、夫は冗談ともつかず「老後の楽しみ」といっていたが、息子たちが、高校卒業後それぞれ家を出た中で彼女の存在は本当に貴重だ。

兄たちの時には感じなかったが、彼女を見ていると、少し背伸びをして生意気な、少しストイックで純情な、ぎゅうと抱きしめたくなるその当時の自分がいる。

20になった娘、30になった娘、彼女の成長を追いかけながら、私はその頃の自分を思い出し華やいだ気分になるのだろか。

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ひとりごと11

       紫外線アレルギー

  厄介な症状に悩まされています。発症は昨年の初めての選挙のとき。普通の日焼けの症状どころではなく、顔はひどいところは火傷をしたようにピーンと張って笑うとしわしわになり、赤くほてり、唇などパンパンに腫上がり「タラコくちびる」状態。大きな帽子をかぶりアレルギーを抑える薬を飲みながら選挙戦は何とか乗り切りました。
   秋から冬、春先まで症状は治まっていたのですが、この5月、またまた症状が悪化。病院通いです。日中出かける時は、紫外線カットの衣服と帽子をかぶった上に日傘をさすのですが照り返しがあり、完全にシャットアウトというわけには行きません。(5〜6月は特に紫外線が多いようです。曇っている日でも、うっかりすると首筋からあごにかけて火ぶくれ寸前になってしまいます。)今まで何度も海にいき、日中無帽で出歩いても何でもなかったのにと恨めしくなります。すっかり日の光にあたることに臆病になり、天気予報が雨模様だとほっとしてしまいます。外での活動は日が沈んでからとまるでバンパイア(吸血鬼)の世界です。健康面では大きなトラブルもなく今まですごして来たので、自分の身におきた現実に戸惑うばかりです。
   インターネットで調べてみるとこの症状に悩んでいる方が結構いるようです。以前は真夏でも手袋に長袖、日傘をさしている方を見ておしゃれな人だと思っていましたが、手袋や日傘、サングラスはおしゃれというよりも必需品だったんですね。当事者になってよくわかります。今のところ対処療法で症状を抑えていますが、完治するというわけにはいかないようです。議員活動には影響大ですが、無病息災ではなく一病息災。生活パターンを考えながら暮らしていかなければならないようです。(どなたかアドバイスをいただけるとうれしいです。)
(2004.6.13)



ひとりごと12

遠く小川町からエールを贈ります。

「仕事奪い賃金カット、やめよ    育児中の客室乗務員がJALを提訴

昨日(24日)の各紙に日本航空のママさんスチュワーデスの記事が戴っていました。


(記事の詳細は「赤旗」が一番詳しいので、そこにリンクを張りました。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-06-24/14_01.htm

かつての職場の仲間たちのことは、これまでも陸海空の働く仲間たちが、「ストップ!イラク派兵反対」の集会やデモを組織したり(私も参加しました)、「自衛隊のイラク派遣の中止を求める女たちの会」(航空連・内田妙子議長、新聞労連・明珍美紀委員長、日本医労連・田中千恵子委員長が呼びかけ)の集会、勤務条件をめぐる闘いなど日刊紙にたびたび取り上げられていました。そのつど興味深く読んでいました。

日本航空は2003年4月から、これまで全員に認めていた育児・介護のための深夜業免除を、抽選による75人に制限し、はずれた者は無休の休業か連続4日の勤務を「選択」させる方針を発表。これにたいし日本航空客室乗務員組合は、「子育てしながら働く道を閉ざす」と会社に計画の撤回を要求し、厚生労働省や国土交通省へも日航への助言・指導を申し入れました。日本共産党は、関係省庁や日航へ申し入れをおこない、こうした運動を激励、国会質問でもとりあげ、厚生労働省担当局長や副大臣が、全員への育児休業を適用することの重要性を認め、「適切な助言、指導をおこなっていきたい」と答弁を引き出しました。抽選による制限はなくなったようですが、就労日数が限定され、休日を無給扱いにしています。その結果、賃金がこれまでの半分以下に激減し、生計が成り立たずアルバイトをしている人もるということです。

二人の息子のときは産後1年休職しましたが、娘の時は産後半年で職場復帰しました。私は当時国内線勤務でしたが、原型労働時間と育児日を3日とりほぼ日帰りの業務ができました。それは、大変な思いをしながら会社と交渉し、道を切り開いてくれた仲間がいたからその制度を利用できたのです。あの当時は本当に大変でしたが、働く仲間同士励ましあいながらがんばってこられました。労働組合の中で団結して闘うことが本当に大切だと思いました。記事の写真の中になつかしい顔ぶれがありました。元気でがんばっているんですね。

少子化対策が叫ばれています。女性が安心して働きながら子育てをしていくにはその環境を保障することが何よりも必要です。法的に整備をすること、保育園や学童保育などハード面の整備を充実させること、そして何よりも使い捨てではなく、企業がその社会的責任を果すことが重要だと思います。

航空の仲間たちはかつても今も「闘う組合」なんですね。ガンバレー。遠く小川町からエールを贈りたいと思います。(040625)

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この春、娘と二人で京都に行きました。久々の飛行機での旅。「ああ、飛行機のにおい。久しぶり。」

掃除の終わった機内に入った時の「飛行機のにおい」をふと思い出しました。遠い昔のできごとのような気がします。羽田空港も成田空港も今はまぶしくて遠い存在になっています。「田舎のおばさん」がすっかり身についてしまいました。でもこのポジションはきらいではありません。大好きな小川町にどっぷりつかっています。

先日「ホームページ見たよ」と以前の職場の旧友二人から日をおかずメールが届きました。一人は私と同じ時期に職場を去り、もう一人は今も現役で世界の空を飛び回っています。二人とも人づてに私が議員になったことを知りホームページを見てメールをくれたのです。「ひとりごと12」も読んでくれたのでしょう。今も現役で働くその人のメールは、懐かしい思い出を運んできてくれました。20数年前、労働条件の改善を求め、乳飲み子を抱えての会社との交渉(組合員以外はつれてこないでくださいといわれましたっけ)や、労動基準監督署に子どもを背負い一緒に出かけていったこと、組合主催の勉強会が育児相談会になったことなど、当時はまなじりを決して必死でしたが、今になってみれば何もかもが本当に懐かしい思い出です。旧友はメールの最後をこう結んでいました。「ママさんスチュワーデスに対する風当たりはひどかったけれど仲間がいたし、若かったし、辛くもあったけれどやり甲斐も感じていたかな。懐かしいですね。多恵子さんの3人のお子さんたちも、立派に成長された事でしょうね。我が家の娘も大学4年。少し前から、子育ても卒業だなと思うようになりました。今度は、更に次の時代を担う子供を生み育てている人たちのお手伝いが少しでもできればと思っています。多恵子さん お体に気をつけて益々ご活躍くださいね」・・・こんどゆっくり温泉にでもつかりながら積もる話をしたいですね。(040713)

ひとりごと13

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飛行機のにおい・・・

ひとりごと14

宵 待 草

昼間の暑さを避け、夜ジョイと時々散歩に出かけます。朝、夫が散歩に連れ出すので夜の散歩はオマケなのですが、ジョイは私が身支度している気配を感じると目が輝きだ、し玄関の前で精一杯尻尾を振って愛想を振りまきます。近くにミニ工業団地があり、その周辺を歩くだけなのですが、人通りもないので時々鎖をはずしてやります。ジョイは大喜びで走り回り、私はしばし休憩。その空き地に、夜ともなると可憐な黄色い花が咲き出します。

宵を待って咲く花「宵待草」。物の本によると「宵待草」は名前が似ているマツヨイグサをさしているようです。コマツヨイグサ、オオマツヨイグサメマツヨイグサ、マツヨイグサ。マツヨイグサは江戸時代末期南アメリカからそれ以外は明治時代以降に北米から渡ってきたいずれも外来種です。 我が散歩コースの「宵待草」は葉の形からマツヨイグサではないかと思います。黄色い花の直径は5cmくらい。葉が細く、天に向かってすっくと立っているのを月明かりや街灯のしたで見るのは幻想的です。

「待てど 暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」

竹久夢二の詩をつい口ずさんでしまいます。夢二の生涯は、数々の恋愛で彩られています。ただ一人の妻たまき、若くして死んだ恋人彦乃、絵のモデルだったお葉、その他、数知れない恋。宵待草は誰を想って詠ったものなのでしょうか。      

夢二の描く少し小首を傾けた目の大きなたおやかな女性像と宵待草が重なり、しばしロマンチックな気分に浸ります。(2004.7.31)

 

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ひとりごと15

「強い母」であること


8月22日、日本母親大会に参加しました。地域(東松山市)での参加はありましたが、全国大会は初めてです。東京の有明コロシアムを埋めつくす1万3000人のお母さんたち。「今、憲法が危ない。何とかしなければ」と危機感を持って参加した方達が多かったのではないでしょうか。記念講演をするアグネス・チャンさんは私と同じ年。「ひなげしの花」を歌っていたアイドルも今や3人の男の子のお母さんです。アイドル時代の印象が強く、講演内容については期待半分でしたが、途中から涙が止まりませんでした。

少女時代の彼女はコンプレックスのかたまりでした。二人の姉のうち、一人は医学部にストレートで入るという学校始まって以来の秀才。もう一人の姉は、道行く人が振り返るほどの美人。ごくごく普通の女の子の彼女はいつも二人の姉と比較され、そのたびに心が傷つき、身の不幸を嘆いては、ますます心が苦しくなるという日々を送っていたそうです。学校のボランティア活動の一環で、障害を持った子ども達の施設を訪問したとき、不自由な体全身で彼女の訪問を喜び、受け入れてくれる子どもたちに出会い驚きとうれしさで心が満たされる思いを経験しました。「人に優しくすると感謝される。うれしくなってもっともっと優しくする。受け入れてくれる喜び。コンプレックスのかたまりだった心が溶けて軽くなりました。私がボランティアを続けるきっかけとなりました。」少女時代の限りない人間愛に裏打ちされた彼女の生い立ちが、日本ユニセフ協会の大使としてアジア・アフリカ・中東へ何度も足を運ばせました。飢えと貧困、戦争で苦しむ子どもたちとの出会いの中で、真実をまっすぐ見る眼が培われ、「戦争は何の解決にもつながらない」と言い切る信念となっていったのでしょう。「友達になったイラクの子がね、『自分の夢は安定した生活。空爆がなく夜ゆっくり眠れて、3食食べられて、朝出かけていったお父さんが夕方無事帰ってくること。』というのよ。」これが夢。日本ではごく当たり前の子ども達の生活が、イラクの子ども達にとっては「夢」なのです。涙をためて話す彼女に私も切なくて涙が出てきます。森田さんが開いたイラク戦争写真パネル展を手伝って、かわいいイラクの子ども達の表情を目の当たりにしたのでなおさらです。彼女のことばは続きます「戦争を否定する日本を外国の人は尊敬しています。その日本は今、曲がり角に来ています。今年、来年、再来年が一番大事な年になるかもしれません。ぜひこの宝(憲法9条)を守ってください。それが世界の子どもたちの命を守ることにつながります。」芸能界で生きている人が自分の気持ちをこれだけストレートに出すことは勇気のいることではないでしょうか。平和を願う「母」としての強さです。心打たれました。

同日のしんぶん赤旗一面の「発言・2004」で、俳優の小沢昭一さんがこんなことを話していました。「戦争って、なんとかの『ため』で必ず始まるんです。あのころだって、東洋の平和のためにと。今も『ため』ばっかりでしょう。国際貢献とか。何かの『ため』って怪しいです。このごろ、憲法9条改正という方向に、いろんな理屈つけてきてる。ああいうのがとても疑わしいですね。憲法9条の戦争放棄というのは大前提でしょう。それでずっと具合よかったんだから。またなんかの『ため』にってことで、戦争やっちゃだめだと思いますね。当然戦争は人殺し大会ですから。 −中略− 舞台からハーモニカ吹きながら。ひとりで、僕は戦争への怒りを訴え続けています。」

日本国憲法を守るという一点で、手をつなぐ「九条の会」が発足しました。そして3つの提案をしています。

@ 各地域・分野で9氏のよびかけた「アピール」に賛同する組織をつくろう。

A ビデオやポスターなどを活用し、全国津々浦々に「九条の会」のメッセージを広げよう。

B 大小さまざまな集会、学習会を開こう。

学者、評論家、宗教家、文化人、芸能人、ジャーナリスト、小説家、平和運動家、政治家、そして市井にある普通の人々。様々なジャンルの人達が、思想・信条を超えて平和を語っていく必要があります。

心の中でむせび泣きながら笑って夫や息子を送り出す「強い母」ではなく、世界中のどの子達も安心して眠れる平和な世界にするために、何が何でも憲法9条を守り抜く「強い母」としてこれからも発言し行動していこうと改めて思います。 (2004.8.28)

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ひとりごと16

無言館にて

   8月29、30日と12日の旅程で友人と二人信州を旅しました。無言館と安曇野にあるちひろ美術館を訪れることが、旅の中心です。無言館は2度目の訪問でした。まわりを山々に囲まれた上田市の塩田平と呼ばれる田園地帯の丘陵地の頂に、まるで、中世のヨーロッパの僧院を思わせる建物がひ
                                     っ そりと建っています。ちょうど「嘆きのパレット
                                       」と標題された芸術学校当時のデッサン風
                                       景の写真を篆刻した石碑の制作者が訪れて
                                       いて記念に写真をとらせていただきました。

                                         館内には、絵を志しながら、太平洋戦争で
                                      散った画学生たちの絵や彫刻、300点余りと
                                      彼らが戦地で描きとめたスケッチや祖国の父
                                     や母、妻にあてたハガキ、愛用の絵の具や絵
                                     筆やスケッチブックなどが展示されていました。

                                       入ってすぐに、最初の訪問のときも鮮烈な印
                                    象を受けた清楚な裸体画が目に飛び込んでき
                                      ました。

   


   「あと五分、あと十分、この絵を描き続けていたい。もし生きて帰って来たら、必ず続きを描くから……」と、恋人にそう言い残して、戦地に発ったその人は帰ってきませんでした。戦前の純潔教育のもとで育った素人の若い女性が、キャンバスの前で裸体になることは、たやすい決意ではなかったと思います。しかし、まっすぐに一点を見つめるその女性の稟とした表情は、愛する人を描きとめておきたい「生きたい」という恋人の魂の叫びを必死の思いで受け止めているようで切なくなりました。2度目の涙を流しました。 

                                                   戦争が終わり、早く祖国に帰って絵を描きたい、希望に燃えな
                                                   がら、とうとうそれを果たすことなく銃に撃たれ、病に倒れ死ん
                                                  で いった若き画学生たち。無言館を訪れた
作家の沢地久枝さ
                                                  んは「これらの絵は、無言のまま、見る人の心に多くの思いをか
                                                   きたてずにはいない」と書いています。「私にはもっと生きたい、
                       生きたかった」という声が聞こえてくるようで、
心がざわざわと
                       騒ぎ ました。




  館内を出れば一陣の秋の風がふき、アキアカネが飛び交っています。

 二人ともことば少なくゆっくりとコーヒーを飲みました。(2004.9.1)

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ひとりごと17

「住民こそ主人公」 とは

「山田町長が7選 新しい町へ経験生かす」

914日づけの日刊紙一面です。

兵庫県に南光町という町があります。80歳で自分の歯を20本以上残す運動、国の8020運動の発祥地として有名になり、毎年15万人が訪れるひまわり祭りなど、「ひまわりの郷」作りに取り組み農業活性化にも力をいれ特色を出しています。人口が4500人あまりの小さな町ですが、来年の秋に合併します。

今年の3月、近隣の2町で合併の動きが出たときにまず住民投票で合併の是非を問いました。町長の考えは合併は急ぐことではないゆっくりと考えようという方針でした。そのために、町民に向け考え方の基本になった資料を配布しました。

しかし、町民は考えた末に合併を選択しました。

住民の選択を受け、山田町長は「私は町民から選ばれた町長で『住民が主人公』が私の信条だから合併問題でも町民の意思をきちんと尊重するのは、当然のことです。だから私は合併を推進する立場を明確にして、3町の合併協議を進めていく、その経過や内容も町民のみなさんに示し、南光町民と3町全体にとって、より良い合併になるよう努力しています。」としんぶん赤旗のインタビューに応えています。

9月12日が最後の町長選ということで注目していました。日本共産党員町長である山田兼三さんのことは日刊紙でもよく取り上げられ、ひまわりの時期にぜひ南光町には行ってみたいと思っていました。うれしい勝利です。

自立した町づくりを目指していても国や県の合併推進の大きなうねりの中で住民が合併を選択することもあるのでしょう。民主的な手続きをきちんと踏んでいくその過程にあらためて「住民こそ主人公」ということばを考えます。

私が昨年の8月に初当選してから1年が過ぎました。住民の皆さんの思いを議会に届けられているのだろうか。「住民が主人公」。議員としてこの言葉をいつも考えながらこれからも活動していきたいと思います。

2004918

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ひとりごと18

5周年、1万人突破おめでとう!

「主人公梶聡一郎が警察署に妻を「殺した」と出頭してきた。半年前、アルツハイマー病を発症した妻の看病の為、刑事をやめ、警察学校で後進の指導にあたっていた彼は、周りからも敬愛されていた。その彼が妻の「殺して」という懇願により妻を絞殺する。なぜ殺人を犯したのか。そして自首するまでの2日間、彼はどこで何をしていたのか。固く口を閉ざす梶に、取り調べにあたる刑事や県警は困惑。7年前に一人息子を急性骨髄性白血病で14歳の誕生日を待たずに亡くし、寄り添うように生きてきた夫婦に、一体何があったのか。調べに当たった刑事、担当検事、弁護士、スクープを狙う新聞記者、裁く判事が、各々の人生を背負い、思惑を抱え、事件の真相を解明していく。主人公が守ろうとしたものは?どんな犠牲を払い、誹りを受けようとも、あと1年だけ生きようとする梶の人生の真実が明らかになる。」

骨髄移植がドラマの伏線にあり、夫婦の絆、家族の絆、正義とは、そして生きるとは何か。「魂がないと生きていく資格はないのですか」自らもアルツハイマーの父の介護をする若き裁判官の言葉がずしんときました。命の重みとは何かを考えさせてくれる重厚な映画でした。すすり泣きの声があちらこちらから聞こえてきました。

10月2日、「シネマサークルおがわ」結成5周年、入場者1万人突破記念の第22回上映会は佐々部清監督作品「半落ち」でした。映画終了後、入場者にささやかなプレゼントを贈る抽選会、佐々部監督をお招きしての講演会つきのセレモニーを行いましたが、入場者が昼夜で900人をゆうに突破、大成功のうちに終わりました。「声高に言うわけではないが、平和でなければ映画を作ることもできないし、こうして皆さんが映画を楽しむこともできないでしょう?」講演の中で淡々と監督が語っていました。

講演会を終わっての感想が佐々部監督のホームページの中の「ほろよい日記」に書かれています。ぜひご覧ください。

「小川町に文化の灯をともそう」と映画大好きの人たちが集まってできたシネマサークルですが、いつの間にか5年が過ぎました。3周年記念にはあの山田洋次監督がおいでになり花を添えてくださいまし た。 

毎回見に来てくださる常連さんも増えました。継続は力なりといいますが、自ら「映画ばか」とのたまうK事務局長の力に負うこと大です。上映に先立ちご挨拶を述べるK代表も誠実な人柄で、信頼を博しています。候補作の選考や配給元との交渉、会報の発送作業や上映会当日の受付、助成がないわけですから券が売れなければ、次回、次々回はありません。当初は綱渡りでした。でも口コミが広がりサークル会員が増え、継続して見てくださる方も増えてきました。他市町村はもとより遠く他見から足を運んでくださる方もいらっしゃいます。役員のみなさんの努力の結果です。大して役に立っていない私としては恥ずかしい限りですが、7周年に向けて今後とも気負わずこつこつといい作品を上映していきましょうね。(2004.10.04)

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ひとりごとその19

定時制の灯を消さないで

火曜日9時からの「めだか」ごらんになったことありますか。リストラに合い、ひょんなことから定時制高校の教師となった主人公が、さまざまな人生を持つ一癖もふた癖もある人たちの中で紆余曲折、悩み戸惑いながら一人前の教師になっていくというドラマです。ヒロインの女優さんは司法修習生の成長を扱った「ビギナー」も好演していました。一生懸命さがいいです。毎回楽しみにしています。

夫(高校教師)が全日制から定時制に異動し2年目となりました。生活スタイルが変わり、最初は生徒さんとのかかわり方にとまどったようですが、今はもう10年もそこにいるような顔をしています。

全国的にもそうですが、今、定時制高校は統廃合の嵐が吹き荒れています。埼玉県の「21世紀いきいきハイスクール推進計画」によれば、定時制については、2013年までに現在ある33校を13校に減らすことを目標にしています。

夫の勤める小川高校定時制は、1949年に第一回62名の卒業生を出してから、2003年3月まで、実に55年間にわたり2167名の卒業生を世に送り出している伝統のある学校です。小川町にとって有為な人材を多数輩出し、その貢献度は計り知ることが出来ません。その小川高校定時制もご多聞にもれず、統廃合の対象です。10月に発表された中期計画の第一期では統廃合の対象になりませんでしたが、半分以下に減らすという計画の中でどうなるのか予断は許されません。

時代が変化し、生活を支えるため昼間働き夜学ぶといういわゆる勤労学生が少なくなってきたことが統廃合の大きな理由になっているようです。

確かに経済的には豊かになったかもしれません。しかし、豊かさの中で生き方が不器用な子、精神的に弱い子どもたちがはじき飛ばされています。自分で自覚してあるいは薦められて子どもたちは、その悩みの解決を求めるために定時制に入学してきます。そして少人数のアットホームなふれあいの中で少しずつ心を開き、教師も含めた大人との係わりや人間同士の信頼関係を取り戻し、自分の居場所を見つけていきます。いつの時代でもその時代の事情を背負い定時制高校があるような気がします。
 定時制の良い点は、その地域特有の環境の中で、地域ぐるみで「悩める子どもたち」を見守ろうという意識が強いことです。かつてそこに学んだ人たちの温かい目もあります。「町に定時制高校や障害児学校があるというのは、その町の優しさのバロメーターだ。」と早稲田大学の細金教授が言われたそうですが、今回の統廃合で、こうした地域に根差した教育実践が否定され、理想とする環境が失われようとしています。

先日(10月17日)埼玉県民活動センターで第37回定時制・通信制生徒生活体験発表会が開かれました。定時制・通信制に学ぶ生徒が、自己の生活体験を発表しあうことを通して自己の生活を再認識し学習意欲の向上を図ろうという全国的な就学奨励行事の一つです。

今回、小川高校のS君が最優秀賞を獲得、11月21日に行われる全国大会に出場することになりました。小川高校定時制の長い歴史の中で始めての出来事だそうです。夫を通してその作文を読ませていただきましたが、感動しました。S君の許可をいただき掲載します。定時制の灯を消してはならないと改めて思います。ごらんになりたい方はここをクリックしてください。(2004.10.25)

(ご覧になるには                   が必要です)  

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ひとりごと20

母のこと

母が心筋梗塞で倒れてから2度目の手術をした。手術といっても胸を開くわけではなく大腿部の大静脈からカテーテルを差し込み冠動脈にできた狭窄をバルーンにより拡張させ、再開通させるというカテーテル手術である。1回目はバイパスを作り2回目が本手術となった。手術は成功したが、内出血があり、輸血騒ぎがあってCCUに入った。心電図やバイタルを知らせる医療器具に囲まれた中、小さなテレビから流れるニュースの音声に違和感を覚える。血圧も呼吸も脈も安定しているようだ。

父は典型的な九州男児だった。事業のことしか頭にないようで、家庭をかえりみるような人ではなかった。気に入らないことがあると食べていたお膳をひっくり返す。目の前に炊飯ジャーがあっても自分からご飯をよそうことはしなかった。いつも父の顔色を見ながらひっそりと生きているような母が思春期の頃の私はうとましかった

  
折からの繊維不況のあおりを受け事業拡張の波に乗れず、父の経営していた洋装店が破産した。中学2年のときだ。莫大な借金を抱え父は出奔した。電話が頻繁に鳴り、債権者が連日押しかけ、耐え切れなくなったのだろう。しばらくしてから父の消息がわかり、母は私とすぐ下の弟を連れ会いに行った。憔悴しきった父の顔があった。そこでどんな話があったのかはわからなかったが、その後父は母の兄を頼って上京し、残された母と私達兄弟4人は辛い1年を過ごした。1年後、父は何とか生活を立て直し、私たちを呼び寄せ一緒に埼玉に住むこととなった。父流に家族を愛したのかもしれない。しかし不器用でその思いをストレートに表すことはまれだった。

その父も10年前に他界し、現在母は弟夫婦と住んでいる。父が亡くなってから母は弟にこんな話をしたそうだ。出奔した父に会いに行った日、父は母に一緒に死んでくれと頼んだという。それまで口答え一つしなかった母がそのとき父に向かって、「死ぬならお父さん一人で死んでください。私は子どもたちを育てなければならないから」といったという。強いと思っていた父が弱くて弱いと思っていた母が強かったのだ。酒を飲むと弟がこの話をする。

CCUで昏々と眠り続ける一回り小さくなった母の頭を撫ぜながら、少しでも長く生きていてくださいと祈る。(0411・05)

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